大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 平成3年(行ウ)40号 判決

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

宗万秀和

荒木和男

近藤良紹

早野貴文

右訴訟復代理人弁護士

川合順子

被告

加古川労働基準監督署長

岸本丈夫

右訴訟代理人弁護士

滝澤功治

右指定代理人

中村好春

外五名

主文

一  被告が、昭和六〇年三月一二日原告に対してした労働者災害補償保険法による葬祭料及び遺族補償一時金を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

一  争いのない事実等

以下の事実は、当事者間に争いがないか、証拠(証人神谷)及び弁論の全趣旨により認められる。

1  原告の長男である甲野一郎(昭和三三年四月一二日生。以下「一郎」という。)は、早稲田大学政治経済学部を卒業した後の昭和五八年四月に株式会社神戸製鋼所(以下「神戸製鋼」又は「会社」という。)に入社し、一か月間の基礎研修の後、同年五月、新入社員に対する実地研修として、同社高砂事業所回転機工場工務課に配属された。

2  神戸製鋼は、同年一二月四日、一郎に対し、インドのボンベイの南約一三〇キロメートルに所在するタールサイトへ出張を命じた。

3  神戸製鋼は、タールサイトにおいて、ヨーロッパのエンジニアリング会社であるTOPSOE社がインド国営肥料会社であるRCF社から請け負っていた化学肥料工場の建設のために、日商岩井株式会社(以下「日商岩井」という。)を通じてTOPSOE社に納入した空気圧縮機及び冷凍機各二台の据付工事を行っており、右工事(以下「本件工事」という。)の技術指導員(スーパーバイザー、以下「技術指導員」という。)として、神谷直巳(以下「神谷」という。)を一郎が出張する以前から派遣していた。

4  タールサイトにおける一郎の業務は、技術指導員と現地工事会社従業員等との通訳及び事務連絡等の補助業務であり、一郎は、タールサイト派遣後、神谷のために通訳を行っていた。

5  神戸製鋼が一郎をタールサイトに派遣したのは、同人が英語を得意としていたことと、前記業務に従事させることが、一郎に機械に関する知識を修得させる上で有益であると判断したためであり、同人の出張期間としては二か月間が予定されていた。

6  本件工事のために、昭和五九年一月一三日に神戸製鋼の田中実及び西村隆弘並びに富士電機製造株式会社(以下「富士電機」という。)の桜井秋雄の三名の技術指導員(以下、この三名については名の記載は省略する。)が日本から派遣されてくることになっていた。右三名の宿舎について、一郎は前任者である中田某(以下「中田」という。)からRCF社のゲストハウスに宿泊できるとの口頭の了解を得ている旨の引継を受け、自らもこれを文書で再確認していた。ところが、RCF社は、同年九日、ゲストハウスの部屋が満室なので、空室が出るまで右三名はサイインホテルに宿泊していて欲しい旨一郎らに申し入れ、そのために生ずる宿泊料等の差額による出費の増加分を負担しようとしなかった(以下、このRCF社の申入れにより発生した技術指導員の宿舎に関する問題を「宿舎問題」という。)

7  一郎は、RCF社に対し、当初の約束どおり、ゲストハウスに宿泊させるように交渉したが、事態は進展しなかった。

8  この問題について、一郎が指示を受けるべき上司としては、現地には神谷以外におらず、また、タールサイトは通信事情が悪かったため、一郎が直接会社の指示を求めることはできなかった。

9  宿舎問題が解決しないまま、同月一三日、技術指導員三名が到着し、同人らはやむなくサイインホテルに宿泊することになり、そのころから、一郎の様子に異常が認められたため、神谷は、同月一六日、日商岩井ボンベイ事務所長の永井英文(以下「永井」という。)にタールサイトに来てもらい、同人と相談した結果、一郎の気分転換を図り、必要であれば医者の診察を受けさせ、場合によっては会社の指示を受けるため、一郎を伴ってボンベイに行くことになった。

10  一郎らは、同日午後一一時三〇分ころ、ボンベイのプレジデントホテルにチェックインし、一六階の客室に入ったが、一郎は、翌一七日未明、部屋の真下の地上に倒れて死亡しているところを発見され、その死因は、多発性骨折による急性頭部外傷によるショック死と診断された(以下、この一郎の死亡事故を「本件事故」という。)。

11  本件事故は、事故に至る経緯及び現場の状況から、一郎がホテルの自室窓から身を投じたことにより発生したものと見られ、外形的には一郎の自殺行為であると判断される。

12  原告は、被告(旧高砂労働基準監督署長)に対し、昭和五九年一一月一三日付けで労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づいて葬祭料を、同月一五日付けで遺族補償一時金の支給をそれぞれ請求したが、被告は、昭和六〇年三月一二日付けで葬祭料及び遺族補償一時金を支給しない旨の処分をした。

原告は、これを不服として兵庫県労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、昭和六三年三月三〇日、同請求が棄却された。そこで、原告は、労働保険審査会に対して再審査請求をしたが、平成三年八月九日、同請求も棄却され、右決定書は、平成三年九月五日、原告に送達された。

二  原告の主張

1  自殺と業務起因性について

労災保険法一二条の二の二第一項は、労働者の故意による事故を労働者災害補償保険(以下「労災保険」という。)の給付の対象から除外しているが、労災保険法が業務に起因する災害に対して労災保険給付を行おうとする趣旨に鑑みれば、右規定が「故意」による事故を除外した趣旨は、業務と関わりのない、労働者の自由な意思によって発生した事故は、業務との因果関係が中断される結果、業務起因性がないことを確認的に示すことにある。

したがって、自殺行為のように外形的に労働者の意思的行為と見られる行為によって事故が発生した場合であっても、その行為が業務に起因して発生した精神障害の症状として発現したと認められる場合には、労働者の自由な意思に基づく行為とはいえず、右規定にいう「故意」には該当しない。

ここに「労働者の自由な意思に基づく行為」といえるか否かは、その病的意思形成が業務に起因するか否かによって判断すべきであって、労働者が心神喪失の状況にあることを要件とすべきではなく、業務に起因する精神障害により労働者の自由意思が相当程度制限されることによって事故が発生した場合にも、業務と事故との間に相当因果関係は存在するというべきである。

2  一郎の自殺時の精神状態について

一郎は、本件事故の数日前である昭和五九年一月一三日ころから反応性うつ病ないしはうつ状態を伴った短期反応精神病を発症し、そのため同月一五日夜から重篤な精神障害に陥り、心神喪失状態にあった。

自殺行為は、うつ病の定型的な精神症状であり、一郎は、右のうつ病ないしうつ状態という精神障害に支配されて、前記一の11記載のとおり、ホテルの自室窓から身を投じて自殺したものである。

3  一郎の精神障害の業務起因性について

一郎の前記精神障害は、以下に述べるとおり、インドのタールサイトにおける勤務(以下「本件海外勤務」ともいう。)が一郎の精神にストレスを与え続けていた上に、宿舎問題が発生してさらに過重なストレスが加わったことによって発生したものであるから、一郎の精神障害の発症は、業務上の原因に基づくものというべきである。

(一) 海外勤務によるストレス

(1) 海外生活においては、生活習慣、言語、気候、衛生観念、ビジネス慣習等様々な面で国内とは異なっており、これらは、すべて生理的・心理的ストレスとなる。加えて、言葉が十分には通じず、家族、友人、同僚等の相談相手もおらず、ストレスが溜まった際に、それを吐き出して鎮める相手がいないという心理的遮断状況が存在し、このような状況の下で、仕事上又は学業上の困難などが誘因として付け加わると、反応性の精神障害を惹き起こし易くなる。

ところで、生体は、ストレスにさらされると、副腎皮質ホルモンを過剰に分泌するなどしてそれに対応しようとする。この場合も、外見的には通常と変わらないが、時には通常よりも活発で、気分的にも多少高揚しているかのように見える。しかし、このような状態が数週間から二か月程度続くと、生体はストレスの継続に耐えられなくなり、自律神経の失調などの軽度の身体的症状や焦燥感、易怒性などの精神症状が出現するが、これは、ごく普遍的なストレスへの反応過程であって、海外渡航者のほとんど金員に認められ、この時期(以下「不満期」という。)に、自殺や心因性の精神障害をはじめとする諸種の不適応現象が発生する。

そして、その海外渡航者が新しい生活に対して意欲的であればあるほど、ストレスの程度は激しく、精神的疲労が蓄積されていくのである。

(2) 一郎が派遣されていたインドは、発展途上国であって、風俗、習慣、生活、衛生状態、宗教等様々な面で日本国内とは異なっているので、海外生活による緊張の度合いは、先進国におけるよりも著しかった。特に、タールサイトは、インドの中でも僻地であって、通信事情が極めて悪く、会社と連絡をとって指示を得るのに時間と手間がかかるため、自らの判断で対処しなければならない問題が多く、勤務はそれ自体が重大なストレスとなっていた。

一郎は、入社一年未満(九か月目)の社員であり、神戸製鋼の高砂事業所における研修期間中に、タールサイトへ派遣されたものであるところ、同地における勤務は、名目上は研修の一環であったが、現実には、指導者もいない実戦そのものであり、さらに、一郎はそれまでに営業の研修は受けていなかったので、一郎にとって、社外の人間との接触は初めての経験であったのに、その相手は言葉も生活習慣もビジネスに対する考え方も異なる外国人であって、接触自体が著しいストレスを伴うものであった。

また、入社一年目に海外に派遣されるということは、神戸製鋼においても異例のことであり、人事部の反対を押し切って海外に派遣されたことで、一郎は、会社から期待されていると感じ、その期待に何とか応えたいという意識が強く、さらに、一郎の職務は、神谷の通訳と事務連絡等であったが、一郎には機械についての専門的知識自体が不足していたため、技術的な会話の通訳は大きな精神的負担を伴うものであった。

(3) タールサイトにおいては、一郎と交流のある日本人は神谷以外にはおらず、その神谷も就業時間中は現場に行っているので、一郎は、一日に二、三回現場に行く時以外は、外国人の間で過ごしていた。

また、神谷は現地における職制上の上司であったが、一郎とは年齢も離れており、経歴的にも、一郎が早稲田大学政治経済学部卒業の幹部候補生であって、帰国後は東京化工機営業部に配属されることになっていたのに対し、神谷は高砂事業所に勤務する、いわばたたき上げの技術者であったため、営業分野で生じた問題については、神谷から適切な指示を受けることができなかった。

このように、一郎の周りには、様々なストレスを和らげるために腹蔵なく話し合える相手がおらず、一郎は心理的遮断状態におかれていた。

(二) 宿舎問題によるストレス

一郎は、生来仕事熱心で責任感が強く、また、前任者の中田が東京化工機営業部から派遣され、自分も研修期間が終了すれば同営業部に配属されることになっていたため、客観的には相手方に非がある宿舎問題についても、部屋の確保の確認まではしなかったことと、RCF社の約束に対するルーズさに対処できなかったことを気に病み、宿舎問題が自己の責任であるかのように感じていたものであり、しかも、宿舎問題が発生した時期は、一郎が前記のいわゆる「不満期」に入る、渡航後約一か月を経過した時点であった。

にもかかわらず、一郎に対して、会社から宿舎問題についての適切な指示はなく、職制上の上司である神谷から「我々の責任ではないから気にするな。」と言われていたが、技術者である神谷との間の意識のギャップを感じ、孤立感、焦燥感を深めていたために、右言葉も立場の違う者の発言としか聞こえず、宿舎問題は、一郎にとって、大きな精神的負担となった。

(三) 業務以外の原因の不存在

一郎には、本件事故当時、前記精神障害の発症の原因となるような業務以外の精神的な負担は存在しなかった。

また、一郎は、以前に精神障害にり患したことはなく、家族にも精神障害の既往歴はないし、その性格にも、特異な点は見当たらないから、一郎の側には、前記精神障害の発症の原因となるような要因は存在しない。

(四) 以上のとおり、一郎の海外勤務には、定型的に反応性精神障害を惹き起こす準備状況となるべき要素があり、その上に宿舎問題という強い精神的負荷が加わっていたのであるから、一郎の前記精神障害へのり患は、業務の場に通常含まれる危険が現実化したものとして、業務起因性が認められるべきである。

三  被告の主張

1  自殺と業務起因性について

労働者が故意に事故を発生させたときは、右故意により、業務と事故との間の因果関係が中断されるので、当該事故に業務起因性を認めることはできないが、労働者が業務に起因する精神障害にり患し、そのために心神喪失状態に陥って自殺した場合には、業務起因性が認められる。

2  一郎の自殺時の精神状態について

一郎は、宿舎問題について、深刻に思い悩み、抑うつ、焦燥、当惑、混乱状態に陥り、正常時に比べ、いくらか現実検討力を欠いた状態になっていたが、短期反応精神病にり患してはいなかったし、心神喪失に陥っていたとも認められない。

3  本件事故の業務起因性について

仮に、一郎が、自殺時において何らかの精神障害にり患していたとしても、以下に述べるとおり、右精神障害が業務に起因して発症したものであるとは認め得ないから、本件事故について業務起因性を肯定することはできない。

(一) 本件海外勤務に伴うストレス

外国に滞在して異文化に接することは、地勢や気候のような自然的な要因であれ、言語や社会制度のような社会的、文化的な要因であれ、渡航者に様々な緊張関係を発生させ、ストレスをもたらすものであることは、容易に想像し得るところであるが、だからといって、心因性の精神障害の発症率が自国にいる場合に比べて高まるとまではいえない。

そして、本件において、神戸製鋼が入社一年目の社員であるにもかかわらず、一郎にタールサイトへの出張を命じたのは、一郎が語学力に秀でていて、通訳業務に適しているとともに、この出張を通じ、圧縮機等に関する広範囲な知識をOJT(仕事を通じての訓練)により修得することになるから、教育的効果も大きいと判断したためである。現に、一郎自身、この出張については、いい経験になるからと意欲的であり、タールサイトに到着後も、自己の能力を活かしながら、順調に業務をこなしていた。

また、タールサイトは、インド有数の大都市であるボンベイから一三〇キロメートル程離れた、農村のような土地であるが、自動車を使用すれば二時間半から三時間程度でボンベイまで出られるし、一〇分ないし一五分程度のところにアーリバーグという町があって、買い物等の用を足すことができ、決して未開の土地ではない。一郎が宿泊していたゲストハウスについても、四階建てで四〇程の部屋がある建物で、同一敷地内に一戸建ての家もあって、家族連れで住んでいる人も多く、居住者の大部分はインド人であるが、ヨーロッパ人も沢山おり、日本人も神谷と一郎だけではなく、三井造船から派遣された技術者も一人いた。さらに、ゲストハウス内には、診療所も設置されているのであって、居住環境は不便を託つようなものではなかった。

以上の事情に照らせば、一郎が自分を抜擢した会社の期待に応えようとして、業務に精励したであろうことは想像し得るところであるが、能力を超えた複雑困難な業務を命じられたり、必要以上に緊張を強いられたりするようなことはなかったといわざるを得ず、また、一郎がいわゆる「不満期」にさしかかっていて精神的に不安定な状態にあったり、心理的遮断状況におかれていたというような事実も存在しない。

(二) 宿舎問題によるストレスについて

労働者がり患した疾病について、業務起因性が認められるためには、当該疾病と業務との間に労災補償を認めることを相当とするような事情、すなわち相当因果関係が認められることが必要であり、相当因果関係が認められるためには、業務と当該疾病との間に、業務に内在若しくは通常随伴する危険の発現と認められる関係が存在することが必要である。

宿舎問題については、その原因はTOPSOE社の不当な約束の破棄にあるのであって、一郎には何ら責任はなく、また、ゲストハウスの確保ができなくても、ホテルが確保されていたのであり、ホテルを利用した場合の宿泊料の方が高く、その差額が神戸製鋼の負担に帰するにしても、その額はさほど多くはなく、しかも、当座はRCF社が立て替えるというのであるから、直ちに重大な問題が発生する訳ではない。

したがって、一郎が反応性うつ病ないしうつ状態を伴った短期反応精神病にり患していたとしても、右疾病の発症が業務に内在若しくは通常随伴する危険の現実化したものであるということはできず、一郎の業務と右精神障害の発症との間に相当因果関係を認めることはできない。

4  一郎が自殺するに至った機序について

一郎は、技術指導員の宿舎について、前任者から確保ができている旨の引継を受け、自らも文書でRCF社の担当者に確認していたのであるから、宿舎問題は一郎の過失によって生じたものではない。そして、この問題は、最終的には会社が決定すべきことであり、現地における一郎の職制上の上司は神谷であったのであるから、一郎は、神谷に相談し、その指示のもとに行動すれば足りたのであって、決して一郎一人が解決すべき問題ではなかった。

しかるに、一郎は、両親が一四歳の時に協議離婚したため、対人関係における基本的な信頼関係に乏しく、また、非常に几帳面な完全主義的性格であって、自負心、プライドが高く、上昇指向が強かったため、高卒の技術者である神谷を信頼せず、その指示に耳を傾けないで、宿舎問題を一人で解決しようと思い悩んだ末、自殺念慮を抱くに至ったものであるが、そのとき、両親との情緒的結合が希薄であったために、自殺の決行を防止する抑止力が働かず、自殺を決行するに至ったものである。

結局、一郎には、自殺を決行するほどの客観的な状況はなかったものであり、結果として自殺を決行するに至ったのは、一郎の性格に起因するものであるから、一郎の自殺と業務との間に相当因果関係を認めることはできない。

四  主要な争点

本件事故が外形的には一郎の自殺行為によるものであること及び労働者の自殺により事故が発生した場合であっても、当該労働者が業務上の原因によって心因性精神障害にり患し、心神喪失状態に陥って自殺したものであるときは、業務起因性があるとすることは、両当事者のほぼ共通した前提となっているものと認められるから、本件における主要な争点は次の二点に集約される。

1  一郎の自殺が、心因性精神障害にり患し、心神喪失に陥った状態でなされたものといえるか。

2  1が認められるとして、右心因性精神障害が業務に起因して発症したものといえるか。

第三  争点に対する判断

一  争点1(心因性精神障害発症の有無等)について

1  本件事故に至るまでの一郎の異常行動等について、証拠(甲二の三、四の一の二、五の一、六の一及び二、七の一及び二、七の六ないし九、一三の一ないし三、乙一ないし三、証人神谷、同田中、原告本人)によれば、以下の事実が認められる。

(一) 一郎は、昭和五八年一二月六日、タールサイトに到着し、昭和五九年二月三日までの約二か月間の予定で、同地で勤務していたが、昭和五九年一月九日ころまでは、両親や前任者に宛てた手紙に、元気で暮らしている、ここでの生活に満足しているなどと記しており、実際にも、インドでの勤務を前向きに捉え、不慣れなインドの生活に順応し、仕事にも意欲的に取り組んでいた。

(二) 一郎は、RCF社が同年一月九日に宿舎問題についての申入れをした後も、翌一〇日及び一一日は通常どおりの勤務をしていたが、神谷は、そのころの一郎の様子について、気が滅入っているようで、酒を飲んだときにも、それまでのような元気がないように感じていた。

(三) 同年一月一三日、タールサイトに到着した田中ら三名の技術指導員を出迎えた一郎は、同人らに対し、ゲストハウスに宿泊できなくなった事情を何度も申し訳なさそうに説明した。右説明の内容はきちんとしたものであったが、田中らには、一郎の説明の仕方がくどいと感じられた。

同日夜、ゲストハウスの一郎の部屋で、田中らの歓迎会が開かれることになっていたので、一郎は、会食の準備のために、一足先にゲストハウスに帰ったが、他の者が後から行ってみると、準備らしい準備をしていなかった。そして、一郎は、会食の席でも、宿舎問題についての説明を繰り返して、他の者に奇妙な感じを与え、ビールの栓を抜く際には、「私にだってこれくらいのことはやれます。」と自嘲的な言葉を口にした。また、一郎は、歓迎会の間中、打ち解けた様子がなく、元気がないように感じられ、宿舎問題を気にして、しつこく説明を繰り返す一郎に対し、田中が「その話はもういい。」と言って、制止する場面もあった。

(四) 翌一四日の午前中、一郎及び神谷と三名の技術指導員がゲストハウスとホテルの宿泊費の差額の問題について話し合った。その際、桜井から早期解決の要望が出されたが、一郎はほとんど口をきかなかった。

同日の夜は、神谷と一郎がサイインホテルに行き、技術指導員を交えて五人で会食をしたが、一郎は、ここでもほとんど話をせず、食事もあまりとらず、酒もあまり飲まなかった。皆でカラオケを歌ったが、一郎は勧められてやっと一曲の一番を歌っただけであり、元気がない様子であった。その晩、一郎は田中の部屋に泊まったが、神谷が一郎の様子を見に行き、どうしたのかと聞くと、宿舎問題が気になると答えたので、神谷と田中は、「ホテルの方が待遇がよく、よく寝られるから気にすることはない。」と元気づけた。翌一五日の朝、田中が一郎に「よく寝たか。」と聞くと、一郎は「ハア」と答えるのみであったので、さらに、田中が寝てないのかと聞くと、寝てないと答えた。なお、一郎は同日の朝食はとらなかった。

(五) 同日午後一時から、ゲストハウスでTOPSOE社主催の建設工事三周年のパーティーが行われ、各国の技術者らが一〇〇人近く出席し、一郎もこれに出席したが、一郎は、考えごとをしているような様子で、話しかけられてもはかばかしい返事をせず、途中で気分が悪いと言って中座し、自室に戻ってしまった。そこで、桜井が様子を見に行くと、一郎は、ベッドに仰向けに寝て、天井を見つめており、桜井が、「どうしたのか。大丈夫か。」と声をかけても、「別に」と答えるのみで、そのまま天井を見続けていた。桜井は、一郎の様子に異常を感じ、神谷らに相談したところ、神谷は帰る時期を早めて一緒に連れて帰ろうと思うと述べ、他の者もこれに賛同した。

同日の夜、神谷が一郎の部屋に行き、体の具合が悪いのであれば、RCF社の医者に診てもらってはどうかと勧めたが、一郎は、「どこも悪くない。」と答えた。一郎は、この日の夕食を神谷の部屋で同人とともにとったが、その際、神谷が、一郎に対し、日商岩井かホテルの電話を使って会社と連絡をとるため、ボンベイに行ってもらいたいと言うと、一郎はこれを承諾した。

同日深夜、一郎の隣室のインド人溶接技術指導員ラジコポールが一郎の部屋の物音で目覚め、様子を見るため一郎の部屋に赴いてドアをノックしたところ、一郎は、しばらくしてドアを開けたが、完全に取り乱した様子であり、どうしたのかというラジコポールの問いかけに対し、混乱し、途方に暮れた様子で、「どうしたらよいか分からない。」などと答えた。ラジコポールは、一郎をなだめて、ベッドに寝かしつけたが、それにはかなりの時間を要した。

(六) 翌一六日の朝、一郎は、作業服を着て玄関まで出てきたが、神谷に対し、体の調子が悪いので休ませてもらいたいと言って、仕事を休んだ。

昼食時に、神谷がゲストハウスに戻り、一郎の部屋に様子を見に行くと、一郎は朝着ていた作業服のままで、小さなバッグを抱えて出てきた。顔色は青く、表情は暗く沈んでおり、神谷の「大丈夫か。」との問いかけに対しても返事はなく、盛んに手を唇に触れ、その手が震えており、昼食にも手をつけないままであった。一郎は、神谷がRCF社の医者に診てもらったらと言っても、「いいです。大丈夫。」と返事をしていたが、突然、小さな声で「私どうしたらよいのかわからない。」と言いながら、ベッドに手を突いて倒れ込んだ。神谷が起こそうとすると、一郎は、床に座り込んでしまい、手が震えて、身体もぐったりした様子であったので、神谷は、一郎をベッドに座らせた。少し時間が経つと、一郎は、落ちついてきてスープだけを飲んだが、神谷から「本社に送る書類を出すから机のキーをくれ。」と言われても、「意味がわからない。」と答え、神谷が一郎の机の中を探そうとすると、触らないでくれと言った。そのため、神谷は、一郎の様子に異常を感じ、書類を探すのを止めた。

(七) 神谷は、一郎の異常を会社に報告して指示を仰ごうと考え、同日午後二時四〇分ころ、日商岩井の永井に電話して、会社への連絡を依頼するとともに、同人にタールサイトに来てくれるよう頼み、これに応じて、永井は、同日午後六時ころ、自動車でゲストハウスに到着した。

永井、神谷、田中らが相談した結果、一郎をボンベイに連れて行けば、気分転換になり、必要であれば、会社や一郎の実家と直接連絡がとれるし、医者に診てもらうこともできるので、一郎をボンベイに連れて行くことにし、その旨一郎に説明して、その承諾を得た。そのころ、一郎は、シャワーを浴びてややすっきりした様子であったが、昼間のことについて話しても覚えていない様子であった。

なお、神谷は、場合によっては、会社と相談の上、一郎を帰国させるつもりであったが、そのことは一郎には告げなかった。

(八) 神谷と一郎は、永井の運転する自動車でタールサイトを発ち、ボンベイに向かったが、途中、一郎はサンドイッチ二切れを口にした。三人は、同日午後一〇時半ころ、ボンベイに到着し、南京飯店で夕食をとったが、この時も一郎はほとんど食べず、右夕食時もボンベイまでの車中でも、一郎は、ほとんど話をせず、話しかけられてもほとんど応答をしなかった。

神谷と一郎は、午後一一時三〇分ころ、プレジデントホテルのツインの部屋を取り、チェックインをした。その際、一郎は、自分で署名をしたり、パスポートの番号を記入するなどしたが、客室に入った後、神谷が、一郎に対し、「日本への連絡事項をまとめておくから、早く休むように。」と言うと、一郎は、急に強い口調で、「まだ仕事が残っているのになぜ日本に帰すのか。」と言って、神谷に食ってかかった。神谷は、一郎の様子に驚いて、日本に帰すとは決めていないと言ってなだめたが、一郎は、神谷に対し、私の部屋だからと言って退室を要求し、神谷が他に部屋がないと言うと、「では、私が出て行きます。」と言って、トランクを持って部屋を出ようとし、神谷は一郎を引き留めるのに苦労した。

その後、神谷は、一郎を一人にしておいた方がよいと考え、一郎に対し、宿舎問題については、何も心配することはないから、早く寝るようになどと言った上で、会社宛の文書を作成するため、ロビーに下りていった。

(九) 午前二時半ころ、神谷がロビーで翌朝会社に送る報告書類を作成していると、一郎がロビーに下りて来たので、神谷が早く寝るように言ったところ、一郎は部屋に帰った。その後、神谷は、ロビーで寝てしまい、現地の警察官らに起こされて、部屋に戻ると、一郎の姿が見えず、本件事故が発生していた。

2  右認定の本件事故発生に至る事実経過に、甲三の一及び二、証人秋山剛の証言を総合すると、本件事故発生時の一郎の精神状態として、次のとおり認定することができる。

(一) 宿舎問題が発生する昭和五九年一月九日までは、一郎は、タールサイトにおける業務をこなし、精神状態もおおむね安定していた。

(二) しかし、同年一月一三日以降は、一郎は素人目にも様子がおかしいと感ぜられた。

すなわち、一三日の夜には、一郎に、精神医学上、思考障害ないし思考の遅滞化と認めるべき症状(会食の準備を担当しながら、準備らしい準備をしていなかった。)が生じており、一四日以降には、精神医学上、自閉・緘黙と認めるべき症状(ほとんど喋らず、話しかけても応答しない。)が生じていた。また、同日夜の会食時の一郎には、うつ病ないしうつ状態の症状と認めるべき精神運動抑制、抑うつ感情、悲観、自責感等の症状が生じており、さらに、食欲不振、不眠の症状も生じていた。そして、これらの症状は、うつ病ないしうつ状態の典型的な症状である。

(三) 翌一五日にも、一郎は、具合を尋ねる桜井や神谷の問いかけにも芳しい答えをせず、思考障害あるいは緘黙に類する症状を呈しており、同日深夜の自室の中での行動は、一郎が著しい混乱状態に陥り、思考及び判断能力(現実検討能力)を欠いていたか、著しく減退していたことを示している。

また、翌一六日の昼間の一郎の行動、殊に、どうしてよいかわからないとの言葉は、一郎が現実検討能力を失っていることを示しており、同日夜のプレジデントホテルチェックイン後の部屋の中での神谷に対する態度は、一郎が著しい情緒的混乱を来し、明らかに正常とはいえない精神状態にあったことを示している。

なお、本件全証拠によっても、一郎には精神障害の既往症は認められないし、また、本件事故発生前に、一郎に、精神分裂病に特徴的な幻聴、妄想等の症状が存在した事実は認められないから、一郎の症状を精神分裂病様の状態とする意見(甲三の七の関西労災病院金子医師の意見)は採用することができない。

3 以上によれば、一郎は、本件事故当時、精神障害により心神喪失状態にあったということができ、その精神障害の診断名としては、DSM―Ⅲ―Rにいう短期反応精神病ないしは反応性うつ病とみるのが相当である。

なお、この診断名をいずれにするのが相当であるかは、うつ病の鑑別基準として相当期間の症状の継続の確認を必要とするかどうかという医学的な問題であって(甲三の二)、いずれにしても、本件事故当時、一郎が精神障害と判断されるうつ状態にあったことには変わりはない。

4  これに対し、藤井証人は、本件事故当時の一郎の精神状態について、精神病と断定するのは困難で、精神科的には、抑うつ、焦燥、当惑、混乱状態にあったと考えられる旨述べ、右の判断を否定するかのような供述をしている。

そこで、この供述について検討すると、藤井証人は、一郎の精神状態について、精神病と診断するのが適切ではない理由として、短期反応精神病という病名は、予後ないし経過が判明して初めて付し得る病名であるところ、本件では、一郎は症状発現後短期間で死亡しているので、予後ないし経過の確認が不可能であるという事情を挙げる(同人の第一四回証人調書二一頁)。

確かに、DSM―Ⅲ―Rにも、予期される回復を待たずに診断しなければならない場合には、暫定的診断としておくべきことを注記している(乙四)が、本件は、精神疾患の治療の指針としての病名を決定するものではなく、一郎の死亡直前の精神状態についての判断であるから、病名を暫定的とするのが相当かどうかを検討する必要はないし、対象者が途中で死亡した場合はおよそ精神病という判断が不能であるとすることに帰着する藤井証言の意見はあまりにも形式的な考え方であって、到底採り得るものではない。

かえって、藤井証人自身も、一郎の精神状態については、「抑うつ、焦燥、当惑、混乱状態」であるとしており、これは、右2で判断した一郎の精神状態と相当程度一致するものであるといえるから、藤井供述は前記判断を覆す実質的論拠を持つものではなく、他に前記判断を覆すに足りる証拠はない。

二  争点2(一郎の心因性精神障害の業務起因性)について

1  証拠(甲三の二、三の四及び五、一四ないし三二、三五、証人秋山)によれば、いわゆる国際化の進展に伴い、企業に雇用されている日本人が、業務上の都合により短期又は長期間にわたり、海外に派遣される事例が増え、その派遣先も、欧米の先進国に限らず、発展途上国も含めて多岐にわたるようになったことに伴い、日本人が海外渡航中に自殺をしたり、精神疾患を発症することがあり、精神医学の文献上にもそのような症例報告がされるようになってきていること、このようなことから、海外に在住している日本人の精神面の健康管理が精神医学上も重要な課題とされ、企業によっては、精神科の医師等を海外に派遣してカウンセリングに当たらせるなどして、海外に派遣された社員の精神面の健康管理を試み、一定の実績を上げていることが認められる。

右のような状況を背景に、精神医学者の中には、海外勤務によるストレスについて、第二、二3(一)(1)に掲げた原告の主張と同旨の見解を採る者が少なくない(甲三の二、三二)。事実、海外生活においては、生活習慣、言語、気候、衛生観念、ビジネス慣習などの様々な面で国内における生活とは異なるため、予測が裏切られることが多く、これらが、人により多少の差異はあるにしても、生理的、心理的ストレスとなること、また、海外においては、家族、友人、知人、同僚などの相談相手がいないことから、悩みを打ち明けるなどしてストレスを発散することができず、ストレスが蓄積されやすいこと、そして、そのような状況の下で、仕事上の困難などが誘因としてつけ加わると、心因性精神障害の発症の危険性が高まるということは、一般論として、是認することができる。

2  証拠(甲二の三、四の一の一及び二、四の二ないし五、四の七及び九、五の一、三及び五、七の一、一〇、一一、乙一、二、証人神谷、同田中、原告本人)によれば、以下の事実が認められる。

(一) 一郎の海外渡航の経験としては、小学校一年の夏休みにデュッセルドルフに、中学二年の夏休みにニューヨークに、高校二年の夏休みに従兄弟三人とアメリカ西部に、大学卒業時に友人四人と二週間ヨーロッパ(フランス周辺)に旅行に行ったことがある。

(二) 本件工事のため、昭和五八年六月に、高砂事業所から技術指導員として、神谷が派遣され、同年一〇月からは、同工事の営業担当部署である神戸製鋼東京化工機営業部から中田(昭和五七年入社)が、通訳兼連絡係として派遣され、契約内容の細かい詰めの作業は同人が担当していた。

なお、神谷は、昭和三六年に神戸製鋼に入社し、入社以来同社の技術者として高砂事業所に勤務していたものであるが、現地における中田との関係は必ずしも円満なものではなかった。

(三) 一郎は、中田の代替要員とし、TOPSOE社、RCF社及び現地工事会社と神谷ら現地派遣技術指導員との間の通訳及び事務連絡等の業務のために、派遣されたものであり、一郎の現地滞在予定期間は昭和五八年一二月四日から昭和五九年二月三日までの約二か月間で、その後は東京化工機営業部への配属が予定されており、そのことは一郎自身も承知していた。

一郎が派遣されることになったのは、同人が、全社英語検定二級に合格するなど語学力に秀でていて、前記の業務に適しており、この出張を通じ、圧縮機に関する広範囲な知識をOJTで修得できることから、教育効果も大きいと考えられたためであり、この出張に対しては、一郎も意欲的であり、いい経験になると喜んでいた。

なお、神戸製鋼において、入社一年目の社員が海外に派遣された例がなくはなかったが、同社の人事部は、一郎が未だ実習中であることを理由に、当初は一郎の派遣に反対していた。

(四) 中田が一郎への引継を終えて帰国した後は、現地における神戸製鋼の従業員は神谷と一郎の二人だけとなり、一郎は、通訳及び事務連絡業務に従事する他、本件工事について熱心に勉強し、神谷から聴取した技術的な事項や仕事上の問題点などについて、丹念にノートをとっていた。

現地においては、神谷が一郎の上司に当たったが、同人には営業面の権限はなく、営業に関する事項は前任者の中田が担当していて、同人から引継を受けたことや、一郎自身も東京化工機営業部へ配属が予定されていたこともあって、一郎は、営業に関する事項についての指示を、中田に仰いでいた。

なお、一郎は神谷と円満な関係を保っていた。

(五) 一郎と神谷は、RCF社から各提供されたゲストハウス(鉄筋コンクリート造四階建)の三階の一室(バス、トイレ、冷蔵庫付き)に宿泊していたが、このゲストハウスには、診療所も付属して設置されており、インド人の他、ヨーロッパ人も多数居住しており、三井造船から派遣された日本人の技術指導員も一人宿泊していた。

現地における平均的な生活パターンは、午前八時前にゲストハウスを出発して職場に向かい、昼休みにはゲストハウスに戻って昼食をとり、同所で一時間足らずを過ごした後、再び職場に行き、午後六時すぎにゲストハウスに帰って夕食をとるというもので、一郎と神谷は、両人のいずれかの部屋で、夕食を共にすることもあった。

職場においては、一郎は、連絡等で工事現場に一日二、三回行く他は、現場事務所にいることが多かった。本件工事の現場で働いている日本人は全部で一〇名程いたが、一郎は、ゲストハウスに宿泊している日本人とは何度か食事を共にしたことがあったものの、これ以外では、他社の日本人とはほとんど交際がなかった。

現地における休日は、日曜日及び隔週の土曜日で、一郎は、休日には買い物などのためボンベイに出かけたり、サッカーなどのスポーツをしたり、日本から送られてきた新聞、雑誌等を読んだりして過ごしていた。

(六) 一郎は、昭和五九年一月一日付けの両親に宛てた手紙の中で、「こちらは、万事ルーズでのんびりしています。仕事の約束でも期日が守られたことがない。昨日も、レター発行をしてもらう約束が破られ、私が頭にきて、『約束が違う!!』と、つい大きな声を出すと、やぶった相手が『ここはインドである。あなたがたの国のような先進国ではなく、発展途上国である。(中略)』と一席ぶち、結局手紙はくれずじまい。一言も『I'm sorry』と言わないのは立派というか…。まあ、カッカしたら負けです。」と書いており、さらに「インド滞在は最高の経験だと思っています。三月の初めには遅くとも帰る予定。」とも書いている。

また、一郎は、一九八四年一月四日付けの中田に宛てた手紙に、次のように書いている。

「早めに部品等の手配依頼をしております。なにせここはインド、全ての約束が遅れがちですから…。(中略)神谷←→山川の関係も円満ですから御安心を。次に私の仕事ぶりですが、純粋に神谷氏の下僕という形。(中略)インドに着いた当時は英語はチンプンカンプンだし、腹はいたいしで、ボロボロでしたが、今ではレター作製、また、英会話も完全ではないが、少しは場馴れし、大過なくやりとげています。(中略)特にやっかいな問題が発生しないせいもありますが、今まで無事にやってこられました。(中略)ここでの生活に極めて満足しています。(中略)S/Vの受入に関しては全く問題なし、安心してください。(中略)インドでの仕事そして実習。本当に貴重な経験であり、来土して頂いたことに感謝しています。」

(七) タールサイトは、人家が疎らな農村で、同所から日本へは電話が通じなかったので、神戸製鋼との連絡は、TOPSOE社のテレックスを利用するか、近くの街のアーリバーグ(車で一五分ないし二〇分程度)に郵便を出しに行くのを通常の手段としていた。

但し、TOPSOE社に知られては都合の悪い場合や緊急な場合は、ボンベイの日商岩井の営業所まで出向き、同所の電話等を利用していた。

(八)(1) 昭和五九年一月一三日に、本件工事のため、日本からタールサイトに田中ら三名の技術者が派遣されてくることになっており、その宿舎として、ゲストハウスに部屋を確保することになっていた。桜井は、神戸製鋼が納入した機器に富士電機の製品が組み込まれていたので、その技術指導のために派遣されるものであり、神戸製鋼と富士電機間の契約では、富士電機の技術指導員の宿泊費は神戸製鋼がすべて負担することになっていた。

一郎は、中田から、昭和五八年一二月初旬に、TOPSOE社の担当者から三名の技術指導員らがRCF社のゲストハウスに宿泊できるとの口頭了解を得ている旨の引継を受け、自らも同月中旬にゲストハウスの部屋の確保の了解を取り付けた上、相手方の確認文書を受け取っていた。

(2) ところが、昭和五九年一月九日に至って、RCF社は、TOPSOE社の担当者を通じ、延泊者が出てゲストハウスの部屋が空かないので、空室が出るまで、技術指導員三名はサイインホテルに宿泊して欲しい旨、及び、サイインホテルの宿泊費はRCF社で立て替えるが、後日神戸製鋼から全額返済してもらいたい旨を神谷及び一郎に申し入れてきた。そして、この宿舎問題は、一郎にとって、初めての大きな業務上のトラブルであった。

技術指導員一人当たりの宿泊費は、ゲストハウスであれば、一か月約五万円で済むところ、ホテルだと一か月約一七万円かかる上に、食事代もホテルの方が高額であり、さらに、一郎と神谷は、ゲストハウスで生活していたために、宿舎が別になって、技術指導員らとの打合せ等がしにくくなるという不便も生じることになった。もっとも、サイインホテルは、ゲストハウスよりも部屋は良く、技術指導員の宿泊費は、後日、神戸製鋼から清算されるので、宿泊費が高くなっても、技術指導員個人に不利益が生じることはなかった。

(3) 一郎らは、RCF社側が従前ゲストハウスの部屋の確保を約束していたことから、宿泊費の差額分をRCF社側で負担するよう主張したが、TOPSOE社の担当者は、同社としてはRCF社にゲストハウスの確保の依頼はした、それ以上の権限も責任もないと反論し、譲歩は得られなかった。

(4) 一郎は、神戸製鋼宛に宿舎問題等についての報告の手紙を作成し、タールサイトに派遣されていた三井造船の技術指導員が同年一月一〇日に帰国する際に、同人に手紙の投函を依頼した。

右手紙の内容は、宿舎問題についての詳細な交渉経緯とそれに対する一郎の見解及び会社の指示を仰ぐ内容であり、また、神谷が一郎の帰国に先立って帰国することになっていたために、自らの出張期間、所属等自分の今後についても問い合せる内容でもあった。しかし、一郎の死亡まで、会社の指示はなかった。

(5) 宿舎問題について、神谷は、インドではこのようなことはよくあることであって、自分達に責任はなく、また、宿泊費は神戸製鋼の負担となっており、差額は会社が清算することになるので、大きな問題とは思っておらず、一郎に対しても、宿舎問題は自分たちの責任ではないので心配しないように、自分が帰国した時に解決すると言っていた。

他方、一郎は、宿舎問題を契機に、①当面の対応策、②技術指導員に迷惑をかけず、神戸製鋼への損害を最小限に抑えるという二つの原則の下での問題点の整理、③今後の海外出張における宿舎確保のあり方、④自分のとるべき行動等を検討し、この検討結果について、一月一二日の日付の記載のあるメモを作成しており、同メモには、営業マンと技術指導員の意識の違い(営業マンは会社利益を第一とし、技術指導員は自己防衛を優先するとしている。)について言及する記載や、「私はしゃべりすぎるか、自己及び自社のためには寡黙であるべき時も。」、「この会社で出世するためには、自分からアプローチするしかない。」との記載があって、「ホテル問題緊急」との記載で締めくくられている。

このように、一郎は、営業職の立場から、宿舎問題を会社のコストの問題として捉え、独自に対応策を考えていた。

(6) なお、一月九日におけるTOPSOE社からの申入れの趣旨は、ホテル代はRCF社が立て替えて、後日神戸製鋼に返済を求めるというものであったが、現実にはRCF社はホテル代を立て替えず、結局、技術指導員が自分のホテル代を立て替えて支払わざるを得なくなり、一時的に技術指導員に負担をかけることになった。

3  以上の認定、説示に、第二、一記載の事実(争いのない事実等)及び前記一の1で認定した事実並びに証拠(甲三の一、二、証人秋山)を総合すると、一郎の精神障害の発症と会社の業務との関係について、以下のとおり、判断することができる。

(一) 一郎は、入社前に数回の海外旅行の経験があり、語学にも秀でていたが、留学等の相当期間にわたる海外生活の経験はなく、インドにおけるビジネスの場での語学力としては、十分なものではなかった。

また、一郎は、入社後一年に満たない新入社員であり、本件出張当時は、研修期間の途中であって、営業部門での経験は積んでおらず、海外勤務はむろん初めてであった。もっとも、入社一年未満の海外出張は、神戸製鋼では先例がないわけではなく、直ちに、他の社員と比較して特に過重な業務を課されたとはいえない。

(二) 派遣先のインドでは、発展途上国であり、言語はもとより、風土、生活習慣、風俗、衛生状態、人種、民俗、宗教等あらゆる面で我が国と差異があり、特に、タールサイトは通信事情が極めて悪いため、前任者の中田が契約の細かい詰めの作業をしていたものの、何らかのトラブルがあれば、会社からの指示を得るのに時間がかかり、一郎が自分で判断して処置しなければならないことが多かった。

また、一郎が業務上接触した相手方は国籍も様々な外国人である上に、インドにおけるビジネス上の約束の履行に対するルーズは日本とは比較にならず、一郎自身もそのことに悩まされていた。

これらの点に照らせば、タールサイトは、入社一年未満の新入社員の初めての海外派遣の派遣先としては、いささか過酷なものであったということができる。

(三) さらに、神戸製鋼は、タールサイト周辺に出先機関を有しておらず、派遣先の神戸製鋼の社員としては、基本的には、技術指導のために派遣されていた神谷しかいなかった。のみならず、一郎にとって、派遣先で交流のある日本人は神谷以外にはいないのも同然であり、特に就業時間中は、神谷は現場におり、一郎は一日に二、三回現場に行く他は、事務所にいて外国人の間で執務していた。また、タールサイトは、通信事情が悪かったため、国内にいる親しい者とコンタクトを取ることが極めて困難であった。

神谷は、一郎にとって、形の上では、タールサイトにおける会社の唯一の上司であったが、相当年齢が離れている上、同人の職務は基本的には技術指導であったため、営業分野で生じた問題については、東京化工機営業部にいる前任者の中田に問い合せる以外に、信頼のおける回答は得られなかった。

そして、前記のメモの記載から窺われるように、宿舎問題の発生後は、一郎は、会社における自分と神谷の立場の違いを認識するようになった。

そうすると、上司の神谷とは良好な関係を保っていたとはいえ、派遣先においては、一郎にとって、公私にわたってその悩み等を腹蔵無く話せる相手はおらず、そのような者と連絡を取ることも、事実上極めて困難であったといえる。

(四) 一郎は、昭和五九年一月九日まで、表面上は順調に業務をこなしており、手紙の記述等からは、高揚した気分でインドでの生活を賛美しているようでもあるが、このような状態は、海外勤務から来るストレスに適応しようとする反応とみられる。しかし、この状態が継続した後には、生体がストレスに耐えられなくなって、不適応現象が出現する「不満期」に移行することが、海外渡航者には少なからず存在する。

(五) このような状況の下で、一月九日に宿舎問題が発生したのであるが、この宿舎問題は、一郎が派遣先において初めて遭遇した難問であり、同人は、技術指導員が到着するまでの数日間に、TOPSOE社との交渉、対応策の検討、会社への報告等を行い、右難問に精力的に取り組んでいた。

しかしながら、通信事情等のために、会社(具体的には前任者の中田)からの適切な指示が得られなかったこともあって、一郎は、宿舎問題について適切な解決法を見いだすことができず、宿舎問題は、一郎にとって、不安、緊張に満ちた強度の精神的負担になっていた。

そして、田中ら技術指導員の到着後、同人らとの会談のころから、一郎に各種の症状が現れるようになってきたことからみても、右会談その他田中らとの接触により、一郎の不安、緊張が高められ、前記心因性精神障害の発症に至ったものと認められる。

(六) もっとも、被告が指摘するとおり、宿舎問題はTOPSOE社の不当な合意の破棄により生じたものであり、また、この問題について、現地における職制上の責任者は神谷であり、一郎としては同人に指示を仰ぎ、その判断に従って行動しさえすれば良かったのではないかとの見方もあり得るところである。

しかしながら、前記認定のとおり、現地における職制は、単純に神谷が上司で一郎が部下という関係にはなく、年齢、経験では神谷が上であったとはいえ、神谷は技術部門の社員であり、一郎は営業部門の社員として直接会社の東京化工機営業部に指示を仰いでいた状況がある。また、宿泊料等の負担の増加分が最終的に技術指導員の個人的負担にはならないとしても、それはあくまで見通しにすぎず、また、右増加分が神戸製鋼の負担になる危険がある以上、会社の指示がない場合には、現地においてTOPSOE社の責任を明確にし、会社の負担を少なくするように行動すべきであるという見解を、営業部門の社員である一郎が持つことも自然というべきである。そして、費用負担の帰属の交渉がこのようにこじれてしまったのは、前任者の中田がこの点を確認しておらず、これを引き継いだ一郎も、部屋の予約が書面で確認できたことで安心して、RCF社及びTOPSOE社側に対し、費用負担の点を明確にしていなかったことに原因がないとはいえないのであるから、宿舎の確保を担当した者として、一郎が宿舎問題を重大視したことは、理解できるものであり、これを一郎個人の独自の考え方とみることはできない。

(七)  以上を総合すると、一郎の精神障害は、海外勤務で余儀なくされたインドでの生活自体からもたらされるストレスが積み重なっていた上に、宿舎問題という業務上のストレス要因が加わったことによって発生した心因性の精神障害であると認めるのが相当である。

4  藤井証言について

ところで、藤井証人は、自殺の研究を自己のライフワークと自認している医師であるところ、本件において、一郎が自殺に至った機序について、仮に同人の「抑うつ、焦燥、当惑、混乱状態」が精神障害と評価されるとしても、その精神障害は自殺とは直接関係がない旨の供述をしているので、その当否について検討する。

(一) 藤井証人が一郎の自殺について述べるところは、要旨、以下のとおりである。

(1) 自殺は単一の要因で起こるものではなく、本人の対人関係のあり方や性格傾向の偏りに加えて、解決困難な社会経済的、身体的又は精神的問題が生じた場合、その短絡的な解決方法として、自殺念慮を抱いて決行されるものである。もっとも、自殺念慮から自殺の決行に至るまでにはかなりの心理的な隔たりがあるが、本人の対人関係において、自殺しても嘆き悲しんでくれる者がいない状況では、自殺の抑止力が働かない。

なお、一般論として、精神障害と自殺との関連性は必ずしも大きくはない。

(2) ところで、藤井証人は、自殺を起こしやすい性格について、情緒不安定、劣等感が強い、情緒未熟、完全欲が強い、仕事人間の五種類に分類している。一郎の場合、完全欲が強くて、真面目で几帳面であり、また劣等感の裏返しも含め、かなり上昇指向及び自尊心の強い性格であり、右のうち、四番目の類型に当てはまるとする。

(3) また、一郎の両親は、同人が一四歳の時に離婚しており、これが一郎の性格形成に非常に影響を及ぼし、一郎は両親あるいは人間全体に対する不信感を抱いたと考えられる。

(4) 宿舎問題は、周囲が本人を責めているわけでもなく、むしろ上司が本人に対し助言をしており、一般的には精神疾患にり患するような重大な問題ではない。しかし、一郎は、対人関係について基本的に信頼関係が乏しかったので、上司の助言を素直に信頼することができなかった。そして、完全主義的性格のため、自らすべてを解決しようとしたが、解決できずに抑うつ、焦燥、当惑、混乱状態となり、自殺念慮を抱いたところ、両親との情緒的結びつきが薄く抑止力にならなかったので、自殺を決行するに至った。

(二) しかしながら、この藤井証人の供述は採用することができない。その理由は以下のとおりである。

(1) まず、藤井証人は、考察に当たって、被災者の性格を重視する立場をとり、一郎の性格については、完全主義的、几帳面、上昇志向、自尊心が強いと分析している。また、青葉医師も同人の性格について、几帳面、律儀、仕事好き、他人との円満な関係の維持などを特徴とする執着性気質の特徴が認められるとしている(甲三の一)。

確かに、前記一郎のメモには、「この会社で出世するためには」等と記載したものがあり、神谷の同人に対する評価も、「仕事は几帳面」であるとされ、仕事に関して丹念にノートを付けており(甲四の三、四の九ないし一一、乙二、証人神谷)、これらの事実からすると、同人の性格に、藤井証人が指摘するような傾向が見られることは否定できない。

しかしながら、他方で、武蔵高等学校での一郎の調査書では行動及び性格の所見として、明朗、積極的である、広い視野をもち級友から親しまれているとされており(甲七の五)、会社及びタールサイトにおける周囲の者の一郎に対する評価も、明るく率直な人物、今時珍しく相手をたてる人間、ベリー・ナイス・パーソンなどというものであり(甲四の一の一、七の一、七の八及び九、証人神谷)、本件全証拠によっても、藤井証人の指摘するように、完全主義的な傾向が著しい性格のゆがみにまで達していたとは認め難い。

そして、神戸製鋼という大企業に一流大学を卒業して入社した新入社員として、常識的な程度で几帳面な傾向、上昇志向、自尊心といったものを持ち合わせているのはむしろ自然というべきであり、そのような傾向を一郎が持っていたとしても、これを一郎の個体的な偏りとみることはできない。

(2) また、藤井証人は、一郎の両親が離婚していることを挙げて、一郎が人間不信状態に陥っている旨、あるいは、一郎と両親との情緒的結びつきが弱い旨結論付けているが、これは、同証人の心理学的分析に基づく仮設ないし推論といった域を出ず、本件全証拠によっても、右仮設を裏付けるに足りるような事実は認め得ない。かえって、宿舎問題が発生するまでは、神谷と一郎との関係はむしろ良好というべきものであったし、また、当時、一郎には、交際していた女性もおり(甲四の八及び九、七の四、七の六及び七、原告本人)、その交際状況に照らしても、一郎が人間不信の状態に陥っていたとは認め難い。

(3) さらに、精神障害と自殺が直接関係しないという考え方について、藤井証人がその証言において論拠としているのは、精神医学者グルーレの言葉のみであるところ、同人も全自殺者中の精神病による自殺の割合は一〇ないし二〇パーセントであるとしているのであり、その結論が具体的な事例の集積による検証の結果であると認めるに足りる証拠も存しないので、少なくとも、本件においては、精神障害と自殺との関連性を否定するだけの十分な論拠とはなり得ない。

(4) 以上を総合すると、藤井証人の供述は、同証人の提唱する自殺に関する機序に当てはまる要素を捉えて、形式的に一郎の自殺を説明しようとしたものという感を免れず、一郎の性格等の個体的な偏りが自殺の原因であることを十分に説明したものとはいい難い。

5 以上のとおり、一郎については、神戸製鋼が命じた海外勤務による業務に関連して、短期反応精神病ないしは反応性うつ病を発症させるに足る強い精神的負担が存在していたと認められるところ、本件全証拠によっても、一郎に右精神障害の有力な発病原因となるような業務以外の精神的負担が存在したとは認められず、かつ、精神障害の既往症その他当該疾病の有力な発病原因となるような個体的要因が存在したとも認められないから、一郎の精神障害の発症については、業務起因性を肯定することができる。

三  結論

以上によれば、被告が原告に対してした労災保険法による葬祭料及び遺族補償一時金を支給しない旨の処分は違法であり、その取消を求める原告の本訴請求は理由がある。

(裁判長裁判官笠井昇 裁判官太田晃詳 裁判官藤井聖悟)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例